2007年9月7日(Fri) 変わってしまったOKINAWA
思い出のOKINAWA。素晴らしい思い出が詰まったOKINAWAの事をずっとオカナァワと米兵風に発音していました。この沖縄は25年前に大学のウインドサーフィン仲間に誘われて行った事があります。長くなりますが、その時の思い出を。友人がパーテーィの賞品として沖縄往復航空券二人分をもらったので私を誘ってくれました。当時沖縄では珍しいペンションに泊まって、そこのオーナーの方に車を借りて島をドライブした事を覚えています。コザ市に行った時にふらっと寄ったショットバーで飲んでいると、米兵がやってきて一緒に座っていいかと聞いてきました。私たちは怪しげな英語で受け答えをして、それでも何とか意志の疎通をすることができました。時々筆談を交えてコミニュケーションをしましたが、友人は医学部の学生で、二人とも正しいスペルの英語を書くことに、その米兵はびっくりして声を上げていました。店はアメリカンロックが流れ、ドルでも円でも支払いできて、外人はキャッシュオンデリバリーでドルを払っていました。やがて彼と一緒に店をを出て、多くの米兵で賑わうコザの街を話をしながら歩きました。その米兵は空軍の所属である事、刈り上げの海軍の兵隊と我々空軍とは格が違うんだと云う様な事も教えてくれました。米兵は私たちに基地の中に入ってみたいかと聞いてきました。私たちが是非というと、タクシーで連れて行ってくれました。タクシーの中で基地ではMTVのビデオが見たいかなどと聞かれたのですが、二人とも聞き取れず“何て言ってんのやろ?”と言っているとタクシーの運転手さんが全部通訳してくれました。当時の沖縄のタクシードライバーは英語がバリバリに出来たようです。これにはビックリしてしまいました。ゲートを通る時に黒人の兵隊さんに名前を聞かれて答えても、(日本人の名前なので)彼はうまく書けずに、”自分でココに書け!”と言われて書類に名前を書いたことも覚えています。それで基地に入れてもらえました。ゲートを通過して基地に入る車の中に助手席に日本人の女の子を乗せた車が沢山あって、日本男子として複雑な心境になった事も覚えています。基地の中にあるバーで飲んでいると多くの米兵が珍しがって集まってきて、“柔道と空手はどっちが強いのか?”などと聞いてきました。身振り手振りで一生懸命伝えましたが、うまく伝わっていたのでしょうか・・・。基地内のバーでは見た事も無いような形の瓶のビールがあって、空軍の彼は私たちにご馳走してくれました。フィリピン人のウエイトレスが何人かいて気さくに話しかけてくれます。珍しいのでそのビールの空き瓶を2本お土産にしようと思って、基地の中を手に持って歩いていると本物のアメリカンパトカーがサイレンを鳴らして近寄ってきて、“酒を基地外に持ち出すことは犯罪になる。”と言われ、空き瓶を記念に持ち帰ろうと思っている事を告げると笑顔で開放してくれました。その後何回か空軍の彼とは手紙のやり取りをしていましたが、お互いに音信不通になってしまい、今はどうされているのか判りません。でも、この時の出来事は、当時田舎者の(今でもそうですが)学生の私にとっては、夢を見るような出来事でした。そして今でも素晴らしい思い出になっています。今回沖縄に一泊したのですが、出来れば一人で夜抜け出して昔の思い出をたどる事のできる様な場所に行ってみたいと思っていました。妻にも“夜に一人でアメリカンバーに行ってくるから。”と、お許しをもらっていました。(正確には許してもらっていないのですが、“お父さんにも人権があるぞ!”と心の中で叫んで、決死の脱走を試みる決意でおりました。)ところがAPAホテルのある松山という所は日本のどこにでもある飲み屋街だったのです。自販機でコーラを買って、ホテルの部屋に帰って、妻に“思うような所は無いような感じや。コザ市に行かなあかんのかも知れん。”と言って、普通の日本の地方都市沖縄の夜景を見ながらコーラを飲んでいました。翌日公設市場に出かけたのですが、国際道りにもそのような雰囲気のお店は無いような感じでした。“雰囲気が変わったなあ・・・。”そう思いました。